今日は2回目の投稿です。
まぁ、始めたばかりですから、まだ話題があるんです・・・(笑)
ALSという病気を知っていますか?
mixi、Facebook、個人的なメールのやりとりを通じて、病気について発信してきましたので、私の周りの方は、知ろうとしてくれた方が沢山いました。
父が、2008年の11月に告知された病気です。
日本名は「筋萎縮性側索硬化症」と言います。
父は、昨年9月2日に亡くなりました。
何の処置も施さない事に反対する私と目を合わせず「思想の、違いかな・・・」と言いました。
今なら、父の言いたかった事が少し分かる気もするんです。
最期まで、普段通りの会話を心がけていた父は、私が付き添いの時、話しては眠り、また話しては眠り、を繰り返しました。
最後のはっきりとした言葉は、「ありがとう」でも「愛してる」でもなく、
「秋刀魚は竜田揚げにするとうまいぞ、あといかゲソ」
と、少しの間を置いて
「本マグロたたいたのは、醤油じゃなくて味噌で食べるとうまい」
でした。
でも何故か、「分かった、やってみる、感想言う」
って言って、私が試すまで身体がもたないのを知っていた父は、泣いていました。
私も、泣きました。
私に全て頼んだのは、病院スタッフへのお礼です。
入院中、病棟看護師さんの中で個人的に色々話す方に、差し入れをする、と、好物を聞き出しては私に運ばせていました。
母とか、姉を差し置いて、まったく・・・と思いましたが、彼らしい。
それから、12月が一番お世話になった看護師さんの誕生日だから、誕生石のネックレスを買って届けてくれというお願い、これが一番強烈だった。
亡くなる数時間前、夜勤だった彼女が勤務前に病室に来て、父の傍らで号泣していました。
お互いに、すごく大きな存在だったのはよく知っていました。
私が父にもらったのと、色違い(石違い?)のネックレスを用意して、亡くなってから3ヶ月も経って訪れた病院。
「家でゆっくり泣きます」と笑った彼女が、本当に大好きです。
まぁ、始めたばかりですから、まだ話題があるんです・・・(笑)
ALSという病気を知っていますか?
mixi、Facebook、個人的なメールのやりとりを通じて、病気について発信してきましたので、私の周りの方は、知ろうとしてくれた方が沢山いました。
父が、2008年の11月に告知された病気です。
日本名は「筋萎縮性側索硬化症」と言います。
父は、昨年9月2日に亡くなりました。
何の処置も施さない事に反対する私と目を合わせず「思想の、違いかな・・・」と言いました。
今なら、父の言いたかった事が少し分かる気もするんです。
最期まで、普段通りの会話を心がけていた父は、私が付き添いの時、話しては眠り、また話しては眠り、を繰り返しました。
最後のはっきりとした言葉は、「ありがとう」でも「愛してる」でもなく、
「秋刀魚は竜田揚げにするとうまいぞ、あといかゲソ」
と、少しの間を置いて
「本マグロたたいたのは、醤油じゃなくて味噌で食べるとうまい」
でした。
でも何故か、「分かった、やってみる、感想言う」
って言って、私が試すまで身体がもたないのを知っていた父は、泣いていました。
私も、泣きました。
私に全て頼んだのは、病院スタッフへのお礼です。
入院中、病棟看護師さんの中で個人的に色々話す方に、差し入れをする、と、好物を聞き出しては私に運ばせていました。
母とか、姉を差し置いて、まったく・・・と思いましたが、彼らしい。
それから、12月が一番お世話になった看護師さんの誕生日だから、誕生石のネックレスを買って届けてくれというお願い、これが一番強烈だった。
亡くなる数時間前、夜勤だった彼女が勤務前に病室に来て、父の傍らで号泣していました。
お互いに、すごく大きな存在だったのはよく知っていました。
私が父にもらったのと、色違い(石違い?)のネックレスを用意して、亡くなってから3ヶ月も経って訪れた病院。
「家でゆっくり泣きます」と笑った彼女が、本当に大好きです。
| パパの愛車 |
父の愛車のママチャリ、今は私がたまに乗ります。
まぁ色々思い出しますから、時々泣けてきますけどね。
でも、父を亡くしてから数ヶ月、本当に沢山の方から、死生観や、自分だったらどうするか?というお話を聞いて、少しずつ、納得しています。
結局誰にも答えを出せない問いかけをしても、時間を割いて一緒に考えてくれる人たちの存在に、深く感謝しています☆☆☆
でも、欲を言えばやっぱりもう少し長く一緒にいたかったな。
四季の移り変わりに敏感なのは遺伝の様で、麦の穂の伸びたのを眺めながらそう思いました。
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