今日は、愛すべき日本語の話です。
普段、何気なく使っている日本語ですが、そして私はものすごく言葉遣いが悪いのですが、
それでもふと、日本語でないとあり得ない繊細な言い回しが自分の口から出る事があります。
日本語は、一つの事象を表現するだけでもものすごく沢山の表現があります。
それをどう使いこなすか、そしていかに的確な表現をするか、それは個々の持つ語彙であり、感性のなせる技ですね。
先日、英国にいる後輩(というにはおこがましいのですが)が、古い教会の写真をblogに載せていて、その威厳ある美しさに「華美に流れされない不動の美しさ」と表現したら、その表現はぴったりだ、と言ってくれました。
まともに変換したら「黴(カビ)に・・・」となってしまうこの語句を自然に使える友人が、私の周りには多いと思います。
制服のなかった母校の指針が「華美に流れない服装」と、生徒手帳に書かれていたからです。
それが長い年月を経て、自分の「普段使いの言葉」として出てくるのは誇りに思うべき事ではないでしょうか。
高校生の頃は、携帯のメールが普及する直前の時期でしたので、友人とのやりとりは主に「手紙」でした。
授業中、ノートの切れ端に細かい字でびっしり、日常の悩みや、自分の夢について書き、休み時間に友人に渡し、返事を待つんです。
相談事と言っても、自分の中で選択したい道はもう決まっていて、できればそれに同調し、賛成してほしい、そのためにいかに心に響く日本語を使いこなすか、というのが最大の課題でしょうか。
そうしたやりとりの中で、自分の使いたい言葉、相手の使ってきた言葉の中での「お気に入り」を見つけていきました。
PCや携帯を使った「変換」とは違い、自分の手で書きますので、漢字が分からなければ辞書で調べますし、頂いた手紙に書かれていた言葉も同様の方法で自分の糧にしていった時期でした。
今の高校生はどれ位日本語の美しさと、表現力に気付いて、どれ位日本語を知ろうとしているんでしょうか。
そういった観点から見ると、前述のPCや携帯といったツールは、友達と話したくて、伝えたくて仕方ない高校生の時期にはまだ必要ないんじゃないかとさえ思います。
話はそれましたが、これから先はそうそう沢山の事は覚えられないと思いますので、お気に入りを見つけたら、若かりし日の如く書きとめて、自分の手と、目と、頭で吸収していきたいと思います。